涌井システム」の創立から今日に至るまで

創立者 / 涌井 曄子

戦争による全焼

 昭和20年、音楽一家である私の家が所有しておりました、当時日本に一台しかないプレイエルのセミコンサートグランドピアノをはじめ、ピアノ5台、ヴァイオリン十数台、チェロ、リードオルガン等が、我が家に火柱が起つと同時に全焼、灰になりました。

大正初期から、父;高城重之と母:高城翠が『玉鈴会』として演奏活動を行って参りました。戦火で家も楽器も失い、私は父と母と三人で、九州の福岡のお寺に疎開しました。

疎開先で

 九州の疎開先では、私は村の子供たちを集め父の作曲した歌を教える機会に恵まれました。子供たちとの触れ合いの中で、私の胸の奥に響いてきたもの・・・それは、子供の心の美しさ、純粋さ、愛くるしさでした。

その時まさに「子供は神様から授かった芸術品である!」と感じ、「[芸術]と[子供という神の芸術品]とは結びついている!」と直感しました。これは、私の中の大発見でした。そこから私は、「子供の心を尊重し、幼児音楽の高度なものを築きたい」との想いを強く抱き、この道に私の一生を捧げようと心に誓ったのです。

幼児音楽教育研究の出発から今日まで

 その後、私は結婚して「高城曄子」から「涌井曄子」となりました。大空襲の焼け跡により与えられた幼児音楽教育研究の道。これは神様からの賜物であると感じ、一心に精進してまいりました。作曲家として、ピアノ教授として、そして幼児音楽教育家として、今日(こんにち)までずっと活動させていただいております。

 日本に全く系統立ったシステムの無い時代から、すべてオリジナルにより二才でも行える『絵おんぷ』を発明。ピアノと平行しながら、和声学の入り口まで、まるで魔法にかかったように楽しく、そして大人まで使うことのできる独自のカリキュラムを築きました。

この五十年の無言の滲透により、皆様からは感激のお電話、お手紙をたくさん頂戴いたしております。今後益々この音楽教育技術の研鑚に励み、さらに高め、皆様に喜ばれる仕事を続けて参りたいと存じます。

幼児音楽教育への私の想い

 五十年程前まで、日本では「子供だからこの程度で良い」と、子供の心に対する尊敬の念が欠けていたように思います。それはとんでもない誤りであり、「子供は大人を超える素晴らしい才能を秘めている」ことを、私はこの目で見、確信いたしました。子供だからこそ尊重しなければならない部分がたくさんあります。

 音楽は、技術は勿論、愛と純粋、魂の高く清められたところにこそ感動があります。幼児音楽教育にとって、芸術の糸口である「天真」がどれほど大切か計り知れません。

「天使のような子供を大切に育て、その芽(才能)を伸ばすこと」、それは常に高度なものを念頭に置き、途中横道にそれて遊びの次元に止(とど)まってしまうことのないよう、目標の次元に向かって効果的に教育することです。涌井システムでは、そのような音楽教育を実践し、さまざまな実績を重ねております。

『涌井システム』の源

 私が創立致しました「涌井システム」は、大変高次元なものをその根底といたしております。それは、あまりに高次元な内容であるため、私の中ではまるで秘め事のように大切に思っております。この秘め事には、ピアニスト水谷達夫氏が大きく関わっていらっしゃいます。

東京芸術大学名誉教授の地位でお亡くなりになられたピアニスト水谷達夫先生がまだ現役でいらっしゃった頃、私はまだほんの少女でした。その十年後、水谷先生がドイツにいらした時には、既に私が幼児音楽教育に熱を入れていることをよくご存知で、当時のドイツの幼児音楽教育をすべて研究し尽くし、私にご教授くださったのです。そして先生は私にこうおっしゃいました。

「ドイツでは一人一人の先生がシステムを持っている。日本の子供を教える先生はレベルが低く、日本ではシステムを作れる先生がいないんだよ。子供の日常の生活を音楽にして、君、子供の曲を作ってみない?システムを作ってみない?」 その後、早速、子供のために曲を書いたのが『古い手箱』です。

 こうして幼児音楽教育の道に対する私の心が新たに清められ、ドイツを対象とした高度な内容のもとに私はコツコツと独自のシステムを築き、十五年間作曲の師であります入野義朗先生に認められて、入野義朗代表JMLセミナーで主任講師となりました。

この頃にもまだ子供のための系統立った研究がなかったので、私は娘;純子の協力を得ながら、自力で「涌井システム」を確立させたのです。このJMLの頃から序々に私どものシステムが広まってゆきました。

パリの横町の小さなパン屋さん

 このシステムを築いている間、私が密かに思い描いていた理想は、「パリの横町の小さなパン屋さん」。この小さなパン屋さんまで来なければ、この美味しいパンは手に入らない。美味しいからすぐ売り切れてしまう。だからといってむやみやたらに多くは作らない。

あくまで美味しさを保ちながら素晴らしいものだけ売る。そんな小さなパン屋のような音楽塾を作りたい・・・でした。当時は、支店を出す(支部を作る)などとは夢にも考えて参りませんでした。現在でも、私の心の底にはいつもこのパン屋さんがあって「この美味しいパンを、喜んで食べてくれる人たちだけに食べていただきたい」という想いがございます。

以前、このシステムを学んだ方々からは、「懐かしい」「もっと広めたい」というご意見を頂き、現在三十ヵ所にもなった各支部の指導者としてご活躍くださっておられます。

これには本当に感謝の気持ちでいっぱいです。また、娘;純子(現・ハープ奏者)も実際に自分の生徒にこのシステムを導入してみて、「使い易い、もっと広めたい」と申しており、本部を設立するに至ったのです。

実り

 私は心の純粋を保つ努力をしつつ、毎日のレッスンにおいて新たな発見・研究を重ねております。子供たちが笑顔になり、お母様方からは「こんなこと、この子ができるようになるなんて・・・!」と魔法にかかる瞬間、その成果を今、天から降り注がれているという想いで胸感しております。

「美味しいパン屋は一軒だけでよい」という想いと、「清められた内容であれば広めたい」という想い。この二つの心を持つに至り、指導者の向上、及び育成を心掛けております。皆様のお出でを心よりお待ち申し上げます。