ワクイシステムの前身である玉鈴会は大正時代に父母の作り上げたもので演奏活動と音楽教育をしていた。未だ未だ音楽家の少ない100年近く前のこと。玉鈴会の歩みの中の一こまを私は物語りたい。

昭和16年第二次世界大戦が始り、それから音楽家は恵まれなくなった。

音を出すことも気兼ねする時代が続いて。私共は北千束に住んでいて昭和20年戦災に逢いその辺一面焼け野原となった。

私は音楽に一番熱の入っていた感受性の強い19歳の頃。夜までモーツァルトのファンタジーソナタを夢中で弾いていたのを忘れもしない。その夜中のこと。敵の飛行機は襲って来て、私の家に焼夷弾が48個落とされた。

ピアノ室に火柱が立つと同時に辺り一面が火の海。足許の火を、手に持っていた金属で1つ1つ消しながら、火の無い通りまで逃げたのだ。

一晩のうちに、日本に1台しかなかったプレイエルのセミコンサートグランドとグランド、アップライト、合わせて5台、チェロ2本、ヴァイオリン数本、リードオルガン数台、みんな焼けてしまって。翌日から住む家もピアノも無くなった。

でも私の言いたい事は更にあるのだ。こんな逆境に遭っても心は自由だということを。火の中を逃げている時、私の心は幸福に満たされていた。

頭の中は昨夜まで弾いていたモーツァルトのファンタジーソナタ。物悲しいまでに好きだったシューマンの謝肉祭。そして幻想曲。

嵐のように降りしきる心の中の音楽の幸せは、物質を失った現実など問題ではなかった。「芸術を本当に感じるのは逆境に遭った時」そのときは本当に純粋なのだ。

玉鈴会は代々続いていく性質の、地味ではあるけれど、時代の底を流れる一筋の清水なのかもしれない。

私は願っている!音楽は技術を究める事だけが目的ではなく、音楽によって高められ、訴えるもの、感激の有るもの、それらの力の持ち主となる事だ。

その感激とは清められた心と心の触れ合いから生まれるのであるなら、愛による純粋さがどれ程大切であろうか。人間は無形の何かに守られ、命の有る限り美の追求と真理を探究するその事自体に意義が有ることを願ってやまない。

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